2008年12月30日火曜日

天蚕のこと  その3

容易でない天蚕飼育の仕事
 有明地方の天蚕飼育の開始は、全国的に社会問題化した大飢饉のあった天明年間(1781年~1789年)といわれ、この地方の篤志家が野生天蚕卵を採取して飼育を開始したが、当時は作柄が不安定で、飼育は容易ではなかった様子で、「ヤマコ飼いか、ばくち打ちか」、「ヤマコと味噌汁とは当たったことなし」、「ヤマコ飼いに嫁をくれるな」等の冷語が生まれたといわれています。しかしその後、飼育技術に工夫をこらし、年々飼育は盛んになり、明治30年(1897年)ころは、有明村の戸数の52%ほどの農家が飼育を行い、作業のいそがしい時期にお手伝いの人々を合わせると、有明村挙げて天蚕飼育に取り組んだ村といえます。
 この頃になると、前述の冷語が「嫁をくれるならヤマコ飼いに」とかわり、繰糸技術も発達しました。従来は紬糸原料であった天蚕繭が生糸となり、丹後、京都、西陣、桐生、十日町等の機業地に送られ、有明天蚕糸は名声を博したといわれ、糸は金の糸と呼ばれました。
 また、染料に染まり難い特長が民謡安曇節の一節に「安曇娘とヤマコの糸は、やぼな色には染まりゃせぬ」とうたわれました。さらに「天蚕三代」といって、天蚕糸で織った着物は丈夫で美しく、親、子、孫の三代にわたって着られるともてはやされました。
 一方、有明村の人 赤羽文太(1869~1945年)は、明治25年(1892年)、サンフランシスコで開かれた世界万国博覧会に天蚕糸を出品しており、明治32年(1899年)にはフランスに天蚕卵の輸出を行っています。
 さらに、有明村の隣村、穂高町(有明村は昭和29年の町村合併で穂高町有明区となる)の人 上條助市(1876~1954年)は、大学生であった明治30年(1897年)ころ、優れた語学力を発揮して、横浜でアメリカの商社員と交際をもち、天蚕糸のアメリカへの販路を開拓したといわれています。
 このように盛んであった天蚕飼育も、明治末年から天蚕の「微粒子病」が蔓延したこと、明治41年(1908年)の焼岳の噴火降灰による蚕児の発育不良、「蠁蛆蠅(きょうそばえ)」の蔓延寄生等が原因となって、衰退の一途をたどりました。しかし有明村の篤志家青木勘平(1873~1940年)は、南北安曇天柞蚕飼育同業組合(組合員200余名)をつくり飼育の復興につくしました。この事業遂行のため、国、県、郡、村等から、大正2年から11年(1913~1922年)にわたって補助金が交付された記録が現存しています。

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