2008年12月14日日曜日

信州紬 その2

歴 史
 江戸時代初期より、信濃国の各藩では桑樹を栽培させ、養蚕を奨励しました。紬は屑繭を原料としていたので、原料生産地がそのまま織物生産地となり得ました。しかもそれは商品としてよりも、農村で自家用として織られている場合がほとんどでした。
 当時、幕府・諸藩の庶民統制令は、とりわけ衣服について厳しく、寛永十九年五月の郷村に対する『覚』では「庄屋は絹紬・布・木綿を着すへし、わき百姓は布・もめんたるへし」とあって、いずれも条件付きでしたが、百姓身分にも絹織物のうち、紬の使用だけは認めていたのです。紬の原料が屑繭など良質絹糸をとることのできないもので、一種の廃物利用とみられたからに他なりません。
 上田藩の場合、領国の支配を安定化させるためには、何よりも藩財政の基礎がためが必要で、商品価値の高くなってきていた領内特産物に着眼して、これを領外市場に移出専売して利益を上げようとする藩専売の試みが、寛文~延宝期(1661年~1681年)に行われました。寛延三年(1750年)より、上田紬は中山道を京都へと送られたのです。
 『調度貢献明細表』によれば「信濃国は紫草2800斤を産して常陸国(茨城県)の3800斤に次ぐ全国第二位の紫草の産地たり」とあり、さらに『諸国作物調査表』には「紅花の産地たり」と記されているように、草木染材が至る所に自生していたことから、養蚕国であったことと併せて、草木染め、手織りの技法が全県にわたって普及したものと考えられます。安政六年(1859年)横浜開港以来、外国貿易の影響で生糸の値段が高騰して、絹織物に使われていた生糸の大部分が輸出に集中しました。県内各地の製糸工業が隆盛を極める一方で、絹織物は衰退の悲運に見舞われ、織物生産の態勢は屑繭、二等生糸などの活用による農賃織物、いわゆる農家の委託製織が主流をなしました。
 しかし戦後、紬織物の復興が計られ、県を始め市町村の地場振興策が積極的に推進されてから、県下全域にわったって生産は活発となってきました。現在(1978年)は、紬の生産に従事する企業は85社に及び、従事者は1,200余名に達し、生産反数53,000余反に増加して、信州紬の名声は次第に高まり、優良な民芸紬産地としての地位を確立しています。

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